没量という言葉を初めて知った。
”いまのその、わたしはね、このまえある人にね、没量(もつりょう)というね、こういう言葉を書を書いてお渡ししたんですけども、それはなんでもその量で計るという時代ですね、今はね。なんでもお金がたくさんあればいい、いくら稼いだか、何人人がはいったか、全部それが基準になってるんですね。その没量(もつりょう)という言葉がどういう言葉かというと、昔、蓮如上人という偉いお坊さんがいましてね、そのお坊さんのところにですね、道宗(どうしゅう)という若い男が来て、ぜひ蓮如(れんにょ)さんあなたのお弟子にしてくださいと聞いたら、蓮如さんが「じゃあ、おまえこれからすぐ琵琶湖にいって琵琶湖の水をぜんぶ掻き出してくれ」と。そしたらその道宗という男が「じゃあいってきます」といってそこにある柄杓をもって琵琶湖に向かって駆け出していくんですね。それでそれを見た蓮如さんが「よしお前はなかなか見込みがある、弟子にしてやろう」と。
つまり、柄杓持って琵琶湖にいってそんなもの引き出せるはずないんだけど、だけど、そんなことは無視して、つまり量のことは無視して、彼は駆け出していった。そのことがね、わたしは今は大事なことだと思うんです。なんでも量の時代で計る時代に。”
隠者(いんじゃ)というものにも強く惹かれた。一時的な隠者。
そういう状況で自分は何を発見できるのか?